八百屋お七
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
八百屋お七(やおやおしち)(1668年) - 天和3年3月29日(1683年4月25日)(但し生没年には諸説あり)は江戸時代のパイロマニア(放火魔)にして元祖ヤンデレである。好きで好きで堪らない「狂わしいくらい愛してる」と誠くん生田庄之助との再会を夢見て江戸の町に放火未遂を起こす。捕縛されたお七は江戸、鈴ヶ森刑場で火刑になった。享年14歳。(数え年は16歳)
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[編集] 生涯
下総の国(現・千葉県)に生まれたお七は江戸の八百屋太兵衛の養女となる。1683年12月の天和の大火で焼け出されたお七は避難先の寺、檀那寺の寺小姓の生田庄之助に惚れてしまう。
(相手は寺小姓ではなく武士であったとする説など多数あり、火事の詳細も不明)
見事にエロゲフラグが立ったお七であったが、生田庄之助は住職相手の「やらないか?」「うほ」「あっー!」という専用職業だけあって「俺はノンケでも喰っちまうぜ!」という人が振り向くような美青年であったらしく、「狂わしいくらい愛してしまう」
当時の江戸の町の常識からすれば、満年齢13歳のお七はあと二、三年で婚期であった。(現在で云う女子高生的なポジション)故に二人の間に何があったのかは、資料など現存するものが全て伝説的な物である為に想像しかできないが、外見はいい男であった生田庄之助は「お七愛してるよ~」と彼女に何かした可能性は充分にあり、一度二度の女遊び程度の庄之助相手にお七が本気になってノイローゼを併発しヤンデレ化したのは確かであろう。
翌年、見事にヤンデレとなったお七は「誠くん誠くん誠くん庄之助さん庄之助さん庄之助さん」と庄之助に会いたい一心で
と禁忌の火付けを遂に実行する。
この火事で多くの人間が焼け出されたという話(講談のお七屋火事)もあれば「実は小火でした」という話もある。(実際は小火であり、狂ったお七が彼方此方に火を付けまくっているという状態)が当時は消防機関がまだまだ未熟な時代であり放火とその未遂は殺人に匹敵する大罪でありお七は捕縛されてしまう。
が、事情を知れば知るほど「こりゃ男が悪いんじゃねぇか?」とヤンデレお七を見た南町奉行、甲斐庄正親は当時の少年法を適用させようとした。江戸の町は厳罰主義で護られてはいたが、身体障害者や年少の者には御目こぼしがあるシステムであり、数え年15未満の者が犯罪を犯した場合は罪一等減じて死刑を免除するシステムがあった。
お七は数え年16であったが当時の戸籍は自己申告制度であり、奉行甲斐庄正親は「お七、お前は15だろう?」とお七を助ける為にあえてそう宣言したが、素直なお七は「16です」と返答。「そんなことはない、お前は15だ」と甲斐庄正親は再び助け舟を出すが、お七は既に何かを悟っていたのか?只の莫迦だったのか?「自分が16歳である証拠であるとしてお宮参りの記録まで提出」これによりお七の死刑は確定した。
[編集] 紅蓮(愚恋)の結末
当時の放火犯の処刑は江戸鈴ヶ森で行われた火刑であり、お七は市中引き廻し後に処刑された。
処刑される直前まで近郷の松の樹をお七が恨めしそうに睨んでいたという「お七睨みの松」という樹が存在していたという。が、ことの経緯を見れば睨んだというよりも”放心状態のうつろな眼の先に松の樹があった”ということだけであろう。
また「松」は「待つ」であり庄之助を最後まで待った愚かな自分の心の何かを見ていたのかもしれない。
数え年16歳、享年14歳。(満年齢)
野晒しが掟の火刑受刑者の遺骸であったが、周囲の暗黙の了解があってか、彼女の遺骸は実母の手により故郷下総の長妙寺にてひっそりと埋葬された。
[編集] その後
お七の行ったことは確かに犯罪であったがその悲劇性と斬新な江戸ヤンデレが一般に認知され哀れみを呼び、井原西鶴が『好色五人女』で取り上げる[1]、浄瑠璃の題材になるなど広く認知され現在でも江戸ヤンデレの代名詞となっている。
またインチキの隠語である八百長であるが、彼女が八百屋太兵衛の長女であり、彼女の火付け騒動は”実は男の気を引く為のヒステリーの一種であり本気の放火騒動ではなかった”という噂から狂言騒動やインチキ試合を八百長という様になった説もある。いやホントはないんだけどね。アンサイクロのネタなんて信じるとこういう事が起こるんだよね。
当たり前であるが、PCゲーム『School Days』などは八百屋お七のパロディである。また、八百屋お七そのものを題材とした演劇作品も数多く上演されており、北島マヤの例がよく知られている。
八百屋お七の公式グッズショップは新宿区に存在し、周囲を寺社に囲まれ悲劇のヒロインの霊をなぐさめるかのようである。外観がどうみてもオカマバーなのは誰も気にしない。
[編集] 関連項目
