昭和天皇

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

昭和 から転送)
現人神たる天皇陛下は御自ら臣民の爲に本項の全内容を讀まれた
大本營認可

本項の全文章及び全内容は完全に正しい事實として大本營により認可されてをり、

全ての臣民の爲に現人神たる天皇陛下は御自ら本項に御目を通された。

この項目の内容を疑ふことは現人神たる天皇陛下を疑ふことと同樣であり、

誤つた思想を持つとされた場合は政治犯、思想犯として内亂罪の對象とされます。

「昭和天皇の物は私の物、私の物も私の物よ」
~ 昭和天皇 について、真紅
「なぜ我々高砂の人々をお見捨てになるんでしょうか?」
~ 先帝こと昭和天皇陛下 について、台湾の皇民
「『とらのあな』での通販で買う権利をお返しください!!」
~ 先帝こと大行天皇昭和陛下 について、台湾ヲタク
「地雷を踏んだらサヨウナラ。原爆落とされたらオシマイダ。」
~ 昭和天皇 について、一ノ瀬泰造
「国が死んだのに、王だけ生きてるなんて滑稽だわ。」
~ 昭和天皇 について、リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ
この記事は左に寄り過ぎています。
ここが真ん中です。
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「昭和天皇」の項目を執筆しています。
よくあるヒロヒトの姿
よくあるヒロヒトの姿
第4回 (1945年
エクストリーム・謝罪優勝プレイヤー
勝者である真っ赤々大佐より右に立つヒロヒト。なんという図々しさであろうか!あれ、でもあっちから見れば右は左か?
勝者である真っ赤々大佐より右に立つヒロヒト。なんという図々しさであろうか!あれ、でもあっちから見れば右は左か?
日本放送協会から出征する凶悪なヒロヒトの軍隊、どーもくん。
日本放送協会から出征する凶悪なヒロヒトの軍隊、どーもくん
裕仁:「悪ひが君(東條)は死んでもらふしかなゐ。」
裕仁:「悪ひが君(東條)は死んでもらふしかなゐ。」

昭和天皇(しょうわてんのう。西暦1901年4月29日~1989年1月7日)、本名迪宮 裕仁(みちのみや ひろひと)とは、大日本帝国独裁者で、124代天皇である。

122代の睦仁の内孫。123代の嘉仁の長男。125代の明仁の父。徳仁文仁の祖父。愛子悠仁の曽祖父。そしてあなたの愛人。実は女装っ子の一人。

本名は迪宮裕仁だが、「昭和天皇」は死後に命名された追号である。

目次

[編集] 生い立ち

裕仁の歪んだ性格は父からの愛情に飢えた幼少期に形成された。現人神である父・大正天皇はよくチクワで野鳥観察を行っていたが、肉眼で裕仁の顔を見た事は一度もなかった。

[編集] 来歴

日独伊三国同盟(いわゆる桃園の誓)によってドイツアドルフ・ヒトラーイタリアベニート・ムッソリーニと義兄弟の契りを結んだ。特にドイツ・ヒトラーとは「おまえ」「あなた」と呼び合う中であり、そのいちゃつきぶりにムッソリーニはいつもやきもきしていた。中国や欧米列強に対して侵略戦争(25mバタフライ競争;ヒロヒトは第三コース)を仕掛け、剣玉だけで数百万の人民の命を奪った為、連合国からヒロヒトラー(Hirohitler)と呼ばれて恐れられた。このことから今でも剣玉は"HIROHITO"として世界各国で愛されている。

狡猾なヒロヒトは終戦後、大量殺戮の責任(つまり優勝メダル授与)を臣下である東條英機等になすり付けた為(つまり譲った)、東条英機には「かっけー!」っていわれた。また、特別高等警察(特高)や大政翼賛会と呼ばれる親衛隊を使って、日本国民を長きに渡って虐殺し続けていた。ここでいう残虐行為とは記すまでも無いが、実際の歴史では語られることが無いので、やっぱり以下に記そうと思います。

[編集] ヒロヒトと特高と右翼と楽しい仲間たち

主な残虐行為として「ピンポン奪取」が行われたのもこのころであり、今も少年少女の心をつかんで離さない憧れの挫残虐っぷりを見せていた。(巷でよく見かけるピンポンダッシュは奪取できないチキンどもが少しでもヒロヒトになりたいが為に行う模倣行為である。)

ヒロヒトの奪取っプリは奪取王国大阪でも有名であり、ヒロヒトをたたえて、「グリコ」の看板が作られた。だからあの看板は誰がなんと言おうとヒロヒトさまなのです。

このようなヒロヒトに共感した特高が最初に行ったことはじゃんけんで負けたものがロッテリアに行き「マックシェイクください」という残虐行為であった。この残虐行為はヒロヒトが痛く気に入っていたモスバーガーでは行われることは無く、この残虐行為で捕まった特高警察官の藤田田が後にマクドナルドで洗脳され、会長にまでなったのは言うまでも無い。

殺戮集団「どーもくん」の残虐ぶりは未だに公式な文書は秘されているが、一部の情報によると、電車でお年寄りに席を譲ったり、泣いているこどもに手品を見せてあやしたり、女性差別に憤慨したり、薬害エイズ問題では共に戦ったり、hydeの身長を156cmではないと弁明してみたり、やりたい放題であったようである(しかし、hydeの身長は156cmであると決まっている)。

[編集] 性格

  • 臣民たちの血税を使って放蕩する一方、臣民たちの生活には全くの無関心だった。臣民たちが飢えに苦しんで困窮していることを知らされても「あっ、そう」と答えておきながらさり気なくポッケの御菓子を臣民に分け与えた。しかしポッケのビスケットをあまりに分割しすぎて粉々になってしまったのはいうまでもない。
  • 韓国で発行された『マンガ 嫌日流』には、このビスケットをもらえなかった人たちの悲しい叫びに満ち溢れている。そのため、韓国ではビスケットを買い求める人が殺到し、ロッチが便乗商売をした。あれ、ロッチだっけ?ロッテだっけ?まあいいや、キムチのことは。
  • かつてヒロヒトの臣下であったA級戦犯靖国神社に引っ越してきた際、「勝手に俺の秘密基地に入ってくるんじゃない、バーカ、バーカ」と叫んで不快感を示した。しかしこの日の晩、裕仁は枕のすそを涙でぬらしたという。

[編集] 呼称問題

以上のようにヒロヒトは恐るべき暴君であり、そのダイナミックな残虐行為は、マゾ気質を持つ日本人から賞賛された。ヒロヒトの死後、その世界への多大なる貢献から「ヒロヒト」という本名で言及することを全面的に禁じ、国民に対して「口にチャックしてください」と奨励した。専ら「昭和天皇」(正しい発音はショウワテンヌゥー)というちょこっとエロティックな発音で呼んでおり、そのアジエンスに世界が嫉妬している。

[編集] 晩年

あのテレ東もヒロヒトの追悼特番を組んだ。
あのテレ東もヒロヒトの追悼特番を組んだ。

晩年の長期入院の際は、日本の全テレビが体温やら血圧やら脈拍やら今日の運勢やら細かい病状を一々報道。更に死亡時には全テレビが通常番組を中止してヒロヒト追悼番組(いわゆるLive 8)を丸200日間も延々垂れ流した。あのテレ東すら、追悼特番を組んで(組まされて)ヒロヒトを称えている。このため後半のほうになると「ヒロヒトってだれだっけ?」という記憶障害が生まれた。しかし、ヒロヒトはこれを命じたとき半笑いであったというのは有名な話である。

テレビだけならまだしも、日本歌謡大賞と高校ラクビーは中止になるわ、大相撲や高校サッカーが順延されるわで当時の高校生などの夢を奪った。しかしこれはヒロヒトが命令したのではなく、ヒロヒトにベッタリの御用マスコミが命令した。この時、後に総理になる小渕恵三はラグビーが中止になったことを知らず、一人で花園に行き「平和に成ったなぁ~」といって年号が「平成」になった。

[編集] 昭和の日

死後、彼の誕生日を「みどりの日」として祝日として残したのだが、森喜朗による「日本は神の国だ!」として「昭和の日」に改名する動きが広まり、6年後、ようやく実現された。詳しくは昭和の日を参照。 なお、この件に関して翠星石は「みどりの日は翠星石の日ですぅ! 勝手に変えんなですぅ!」と非常に立腹している。

[編集] 神風邪

おフランス帰りのイヤミ27世伯爵によると、ヒロヒト呼称問題に関連して、某百科事典のおフランス語バージョンでは、記事のタイトルを「ボンソワーン(ヒロヒトのおフランス語形)」か「ラム~ル(昭和天皇のおフランス語形)」にするかという真摯な議論を続けたそうな。結果、1024名の体調不良者(うち32%がパルプンテ症状を訴えた)を出して、おフランスは鬼ヶ島に征服された。おフランス大統領猿コジ氏は犬と雉の助けを求めて、武者修行中だが、雉よりもひよこ陛下に助けを求めたほうがいいのでは無いかというフォークロアあり。 なお、これに関わった人物が多数亡命し、鬼畜英米語版某百科事典でも同様の議論を煽った。議論の末に192派にわかれた執筆者は全滅。冥界で多数がおフランス人と同じ症状を訴えたが、ローマ教皇トイレ掃除をすると会社が良くなるといわれ、現在掃除に必死に励んでみたいお年頃。 なお、彼らが何故このような症状に見舞われたのか不明だが、最終的にDr.マシリトの命名によって、これらの症状を総じて神風邪と呼ぶことになった。[要出典]

[編集] 裕仁のゆかいな仲間たち

[編集] 外部リンク

- 見てみるとけっこう怖いので素人にはおすすめできない。


Image:Wikipedia-logo-ja.png この項目「昭和天皇」には、執筆者が大真面目に書いた可能性もありますが、今はまだ周知の事実しかありません。嘘を追加するか、ウィキペディアに転載して下さるボランティアを求めています。 (Portal:スタブ)
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